▼京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘2021/04/09 09:20 (C) 製造業で働く
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「京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘」(落合莞爾著)と言う本を読んだので、その内容を紹介する。これまで、「薩長史観の正体」では、薩長は倒幕の密勅を偽造したが、徳川慶喜は大政奉還により平和的に権力移譲され、戊辰戦争は無意味な戦いだったことを示した。「明治維新の正体〜徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ」では、イギリスが薩長を支援し内戦を誘導したが、徳川慶喜は自ら手を引いて諸外国の誘いに乗らなかったことを示した。「日本人が知っておくべき「この国根幹の重大な歴史」では、坂本龍馬は内ゲバで倒され、攘夷論者の孝明天皇を暗殺し、睦仁親王をも殺害し、南朝天皇の子孫の大室寅之祐を明治天皇にすり替えたことを示した。今回は、その考え方をベースにしながらも、堀川政略と言う戦略の下に実行したとする説を紹介する。
現在の公認史実の根底に「大ウソ」がある。その根幹は明治維新に際し皇太子睦仁親王の入れ替えであり、これは体系的に学説や皇室の権威をもって周到に固められている。
(大政復古の知られざる内幕)
奇兵隊の天皇と三公卿の果たした役割がある。国民の歴史常識に潜む二大偽史とは、明治天皇と睦仁皇太子の入れ替えと孝明天皇の偽装崩御がある。皇室偽史の淵源は南北朝に由来する。護良親王→崇光天皇→栄仁天皇→伏見宮貞成親王→後花園天皇(第1皇子を朝廷天皇)永世親王伏見殿(第2皇子をウラ天皇)としてウラ天皇を作り出した。護良親王の長男興良親王を周防国田布施郷に入れ、同地の佐藤甚兵衛家が興良末裔の大室家を代々保護し、大室家の血を引く地家作蔵と南朝門徒の興正寺スエとの間に生まれた大室寅之祐が、皇太子睦仁親王と入れ替わり明治天皇になった。
中山忠能は皇太子睦仁親王の祖父であるが、その日記には奇兵隊の天皇と表記している。中山忠能は討幕密勅を発し、維新後も高官として新政府に参加した態度・行動から義理の息子・孝明天皇の毒殺と孫・睦仁暗殺は偽装したと考えるしかない。
堀川政略は、孝明天皇の偽装崩御と睦仁と寅之祐の入れ替えが根底にある。奇兵隊の天皇とは中山ら三公卿仲間の隠語であり、中山忠能日記はそのまま明治天皇に献上され宮内省文庫に収められている。孝明朝廷を仕切っていたのは、孝明の義兄で魔王こと弾正尹中川宮朝彦親王と、禁裏御守衛総督一橋(徳川)慶喜が力を合わせた一尹政権だった。慶喜が15代将軍に就いた直後に孝明が偽装崩御され、堀川政略に沿って維新工程に入った。一方、実父でウラ天皇の伏見殿邦家親王の補佐役の魔王は慶喜と組んで公武合体派の首領役を演じてたが、維新工程に入ったことで役割を終えた。
1867年1月に皇位を継いだ奇兵隊の天皇は、御所の生活に慣れておらず、実質的に朝廷を仕切ったのは、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之の三公卿連合である。三公卿連合の朝廷支配は1867年12月の小御所クーデタまで続く。堀川殿とは、堀川御所に隠棲された孝明先帝ではなくウラ天皇になられた睦仁親王である。水戸斉昭は堀川御所を本圀寺に建てた。この本物の御所を隠蔽するために京都御所内に小さな建物を設け堀川御所と公称した。
小御所会議は維新政府の設立総会(1867年12月9日)と言うべきものだった。新官制議定書は大政奉還後の王政復古の在り方を示している。孝明不在の朝廷を取り仕切っていた三公卿は、大政奉還から王政復古まで全てを取り計らっていた。小御所会議は慶喜排除の無血クーデターだった。三公卿は予想していた。慶喜に辞官と納地を命ずるしん断を引き出せたので、倒幕親政派の目的は達成された。慶喜の辞官と納地が意味することは、自党専制の政府を立てることであり、岩倉・島津連合と三条・毛利連合と三公卿が結託したとのことである。公武合体派を排斥し倒幕親政派が政府権力を独占しようとするもので、だからこそ慶喜を排斥した。
旧幕臣の渋沢栄一は、明治体制の誕生にまつわる不公正を批判するために編纂したのが「徳川慶喜公伝」である。堀川政略の明治工程は、慶喜の新政参加を予定していなかった。大政奉還から王政復古にかけての最大の功労者は、三条・岩倉・長州・薩摩ではなく、中山ら三公卿である。徳川から薩長藩閥の専制政体に変わり、1889年に明治憲法で開設された民選議院により、堀川政略の明治工程が予定していた明治公議体制になった。
(明治の通貨政策)
万延幣制が堀川政略の維新工程の一環とすれば、その立役者は小栗忠順である。金貨二本立てにより、通貨資産を保有する民間人に、万延二分判よりも古金と万延金を選好させて退蔵させるために行った。
(神道国教化)
表面は仏像でも最も大事なのは先祖の位牌である。戦国武将は火薬入手のためイエズス会のカトリック布教を許した。信長誅殺を光秀に命じたのは、天海と見るべきである。江戸幕府は、仏教の国教化を進めるために寺請制度を設け、戸籍行政と身分証明制度を寺院に担わせたので、国民すべてが仏寺の檀家になることを義務付けた。
神道国教化と廃仏毀釈を、尊王攘夷の延長線上で捉え、幕末から勃興した国学と復古神道に関わる勢力が、倒幕の功績で新政府の要職を得たため、彼らの神道国教化政策を採らざるを得なかったと通説があるが、祭政一致は神仏分離のため、神仏分離は廃仏毀釈のため、廃仏毀釈は覇道一神教(キリスト教)の侵入に備えたガス抜きとして行われた。
明治天皇のすり替えは真実のようである。この歴史改ざんは国民にはにわかに受け入れ難いが、ゆっくりと国民の間に浸透して行くだろう。薩長新政府の東北地方で行った蛮行も、徐々に暴かれてきている。象徴天皇としての男系男子の議論にも影響あるだろう。