▼飯豊町椿の獅子踊の痕跡2023/02/04 08:30 (C) 獅子宿燻亭10
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小松豊年獅子踊の話から、昨年入手していた飯豊町椿で行われていた獅子踊りの資料の存在を思い出した。
その記録は肝煎だった伊藤嘉六家の膨大な古文書の一部にあった。江戸期天保10年間に椿村で開催された獅子
踊の収支報告で、誰に寄付され何を買って支払いしたかの記録である。
残念ながら獅子踊りについての内容や、獅子踊りの獅子頭の修理などの興味深いフレーズは皆無だった。
しかし、そもそも椿に獅子踊りがあったという情報は飯豊町椿の古い方々でも知らない史実なのだ。
「山形県の民俗芸能総覧」 編集・発行 山形県教育委員会 昭和60年の飯豊町「椿念仏踊」の記述の中に
は「当念仏踊は、獅子踊と共に盛んであったが大正時代に至り理由の詳細については今は知るようすが無いが、
其の筋に依り、一時中断という受難の時期もあり、その後再興し戦争中も堂々としておどり続けられ現在に至っ
ている。」とあり確かに明治期頃まで獅子踊が盛んな時代が有ったことを証明している。
ではその記録は何処にあるのだろうか? 気になってしょうがない。
嘉六家の古い記録を書き写した方が興味深い後書きを残している。
「旧藩時代に椿村内の神社で藩の奨励を得た神社は、台の山之神々社が子孫繁栄安産子易の神として、又薬師堂
は豊作の神として奨励されていた。今日迄調べた古文書では、此の二社だけのようであって、では薬師堂で獅
子踊の祭りなどは行われていたのか疑問があるが、中村の観音堂では大昔から竹を細く割って青獅子(カモシ
カのこと)の頭の形を作り、それに日本紙を何枚も貼り色を付け、それを以って踊ったのが此の附近の最も古
い獅子踊と云はれている(長井川村先生の調べ)
こうしてみると椿の薬師堂の祭りにも獅子踊りをやっていたかも知れない。
又此の文書をみると獅子舞とは書いていないで、獅子踊りと書かれているので、小さな獅子頭で越後風に踊った
のか、それ共此の辺獨特の踊であったか、今では興味多々なれども知るよしも無い。
獅子頭の調(しらべ)
「遠藤コトさん(泉学寺の人)の話によると涌沼神社に古い小さな白木の獅子頭があったがどこにいったのか
不明の事で、又椿 長沼利左衛門家の先代が米沢に年貢納めに行った際、米沢城下で角力大会が行はれていて
、参加し優勝したので拝領になった獅子頭が今でも残っているが、その年代は寛政(西暦1789年〜1801年)
以前で行泉院時代で春木山義信の時代なので、天保拾年の踊りの際どちらも使ったと思はれる。又其の他で
あったかも知れないが、今後の調べとしたい。
角力
此の文書によると添川村、松原村は古くから角力が盛んであったようで、又台の山の神々社の祭禮の際角力
を呼んだ話はよく祖母から聞かされていた。
こうした事を総合して考へてみると、ますます理解に苦しむ。
昭和六拾年六月 」 と苦悶しながら締めくくられていた。
さっそく椿在住の郷土史にお詳しい關川氏に長沼利左衛門氏に獅子頭所蔵の有無について尋ねてもらったが、
残念ながら角力優勝で藩主から拝領された獅子頭の件について不詳だった。現在から200年も以前の話は伝説
であった事が判明したのだった。
涌沼神社の小振りの白木の獅子頭の話は、以前神社関係の方から噂を聞いていたが、そちらも不明だった。
椿の大福寺の焼失で獅子踊りについての記録も亡失したと言われ、これ以上の調査はお手上げである。
逸る気持ちが収まらないので、獅子宿所蔵の獅子踊りの獅子頭コレクションを出してきた。
いつどこで手に入れたか明白な記憶にないが、知人の骨董商から購入したと思われるボロボロの張子の獅子頭
である。形をみると小松豊年獅子踊りの赤い獅子型と同様の西置賜風の表情で、奇跡的に記銘が顎に残っており
「義知(よしとも?)作」と金泥で書かれてあった。
大部分の漆が剥がれ墨書が書かれた和紙が露出してしまっていて興味の無い方は廃棄されているだろう。
下顎は木地に和紙を貼って漆を塗って仕上げた比較的簡易な物だ。
しかし、わずかに眉毛の金泥で描かれた極細の線が技術の高さを感じさせる。白目は胡粉の下地に銀箔
地元で作られたものか、江戸や京都で作られたものか気になるところだが調べる手段が無い。
和紙を幾層にも重ねているが剥離している。その間を覗いて文字を見てみるが判別できない。
「拜天」と見える文字を発見
グシャッと潰れた状態なので、何とかして元の形状に近い形に維持し、復元してみようかと考えている。