▼「小松豊年獅子踊が生まれるまで」2023/02/02 16:11 (C) 獅子宿燻亭10
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2017年に川西町吉田の「交流館あいぱる」に小松豊年獅子踊りの古い獅子頭が所蔵されていると言うので見せて
いただいた。意外にも現在の黒い獅子頭と違い、赤い塗りの獅子で比較的造形も深く、手が込んでいる。そして、赤い獅子踊の獅子頭についての記録は、行政ではまだ調査されていない様子だった。また赤の獅子頭の羽根は防虫保存
の必要がある状態だった。
しかし、その時に手掛かりになる資料として「小松豊年獅子踊りが生まれるまで 飯野敬太郎著」のコピーをい
ただいた。それから様々な獅子踊りに関わる歴史と獅子踊りに対する熱い想いなどが読み取れる。赤い獅子頭が制作された時期は江戸期文化年間まで遡る事が分かった。当時、最上川舟運で栄えた小松の商人をスポンサーになり、豪華な衣装や道具を用意し華やかな祭りの主役でもあったとある。獅子踊の絵馬が長井市川原沢巨四王神社に所蔵されている。その獅子も赤く衣装も豪華で上杉藩の財政引き締め以前の出で立ちと分かる。
長井市川原沢 巨四王神社所蔵の「獅子踊り」絵馬
現在の小松豊年獅子踊りの獅子頭は江戸期と異なり黒で、形も異なり衣装も地味な野良着である。藩政時代、上杉鷹山公の時代、獅子踊りはお上に許可を得て行うもので厳しく統制されていた。獅子踊りは絶滅や休止の時代を繰り返し、時代性を吸収しながら変化しながら継承していった。大正2年頃休止し昭和24年復活したが、資金難になり休止、昭和29年再復活した。「小松豊年獅子踊りが生まれるまで」の飯野敬太郎氏の著作を複写したのが昭和25年とあり獅子踊り休止時期であり、複写された鈴木芳一氏の、この文章にすがる様な無念さを感じるのだ。文章の書かれた時期は不詳だが戦後間も無くだろう。
その文章にあった「叶壇(かのうだん)」については 獅子宿燻亭6の
小松の叶壇 ( https://ssl.samidare.jp/note/?p=detail&l=446189&tl=&lo=&op=&c=&off=&kw= )と
小松の叶壇2( https://ssl.samidare.jp/note/?p=detail&l=446713&tl=&lo=&op=&c=&off=&kw= )に報告
している。
獅子頭が赤から黒に大変化した時期は不明であるが、戦後上小松に写真館を営みながら獅子頭を制作された佐藤太蔵氏を取材した際に、現在の獅子踊りの獅子の形に近い獅子頭と張子の木型が残されていた。現在その獅子頭は川西町立川西中学校芸能部での中学生での獅子踊りに用いられているものと推測される。その獅子の羽のミノや修理を何度か依頼されている。大人の獅子踊りである「小松豊年獅子踊りの会」の獅子は長井市上伊佐沢の江口漆工房で復元制作し、当工房で木型を制作している。その三獅子が現在使用されていると思われる。
上小松の彫り師 佐藤太蔵氏
( https://ssl.samidare.jp/note/?p=detail&l=482155&tl=&lo=&op=&c=&off=&kw=)
佐藤太蔵氏作の小松豊年獅子踊りの獅子と木地
獅子踊りの獅子を東京浅草の藤浪小道具店へ修理に出す話があり、検索してみると現在も営業していて、映画関係や歌舞伎用の小道具類をレンタルしている。歌舞伎で使用する様な豪華な衣装を仕入れ、江戸期の獅子踊りに用いられていたと想像すると、当時の演ずる方も観客も、さぞ熱狂的だったのではなかったかと偲ばれる。
さて、「小松豊年獅子踊りの生まれるまで」は飯野氏が綴った想いを400字詰原稿用紙21ページに鈴木芳一氏が纏めたものである。飯野氏が40年に渡り小松の獅子踊りにかけた情熱を、後世に書き伝えようとしたものである。このまま、私の資料の一つとして消え去るものとしては尊すぎる資料であると考え、当ブログにてご紹介したいと考えた次第です。
令和5年現在、以前コロナウイルスの影響を受け、飯野氏や古(いにしえ)の人々と同じ様に、伝統芸能の衰退の一途を辿っている現状を懸案している。先人が困難を乗り越え、獅子踊りの素晴らしさを如何に伝えようとしたか、感じて頂ければ幸いです。なるべく原文に近い旧仮名遣いでお伝えしたいと思いました。
今後、飯野敬太郎氏や鈴木芳一氏について調べ、更に詳しい話を調べてみたいと考えております。
昭和25年4月19日鈴木芳一氏より複写
「小松豊年獅子踊の生まれるまで」
飯野敬太郎 著
記すにあたって
小松豊年獅子踊りについては、小松町史、川西町々史、その他文化財関係の資料
として、各覧に依り発表されています。 小生40年以上獅子踊会員とし
て保存に微力を尽くして参りました。確たる資料のないままその歴史を重ねて参っ
た訳ですが、関わりを深くするにつれ、獅子踊大好きだった長老各位、獅子踊をこ
よなく愛して来た街の皆さんに、折に触れ耳にした、或いは、小生自身が目の当た
りにした物品や道具類について、その職にあった方々から得た知識を記し、次代に
継ぎ長き継承への橋渡しを計りたい。
豊年の冠称は、消滅を辿らざるを得なかった圧政から、豊年を祈願して、毎年、
神佛と自然に捧げる「祈りの舞」として、見事に復活させた地区民の反骨精神を、
より尊ぶ名称として、誇りをもって長く伝えたく希ふ次第です。記録にない口伝とし
て読まれれば幸甚に存じます。 敬太郎 印
獅子踊りが生まれるまで
町内 田町から、米坂線の踏切を弥とすぐに左側、民家の後方に、湯殿山や他の
石塔の付近に、「叶壇」と呼ばれている場所があります。「壇」とは、遠く昔の「祭
祀を行う場所」とあり、一段高く作られてあります。各々の一辺、又は四方の角が
正確に東西南北を指し、疫病(流行りやまい)や旱ばつ、不作など神羅万象、自然
の悪現象などに、神佛の力を借り、祈祷に依って困難から逃避しようとした、祈祷
の聖地であります。
霊験あらたかなその場所について、人々は「叶ふ壇」と名付けました。特に宿場町
として盛えて来た我が町には、三日町、五日町、八日町、十日町の町名が示すよ
うに各地に市が立ち、田町村との行き来が盛んでした。
なかでも有力なのは、馬の大市があります。大金を懐に東北は言ふに及ばず、日
本中から家畜商である馬喰さん達が、当地に逗留して商売しておりました。
北前船では日本全国から、或は遣唐使、遣唐使に依る外国から・・・と、各地の
情報が集まり、散ってゆきました。情報と共に、独特の文化さえも持ち込まれまし
た。異文化である処の越王神、信州の諏訪神社、虫送り、神送り行事、商宮律(シャ
ギリ)と呼ばれている山車、などなど徳一上人、楠正成、上杉謙信公達の歴史を代
表する人々の通過などと共に、各地の文化が次々ともたされました。その中には、
旅のつかれをいやし、短い宿泊の楽しみに数々の芸能人が訪れ、公演して行きまし
た。
叶壇の話を耳にし、芸能の上達と大入り満員を祈願して訪れた人達も沢山おった
と思われます。昭和十五、六年頃も役者さん達を伴ってお参りした事もある、と、
小松屋の関係者から聞いたこともあって、霊験も偲ばれるようです。藩主の交代
や、行商人、旅芸人たちの中でも、当地に住みつき、諸国の文化を伝えて来られた
ことも事実です。
江戸時代になると富豪達が現れることになります。十印を代表とする金子家、加
賀屋の五十嵐家、権兵衛様と呼ばれた佐藤家、酒造業の井上家、神司職の金子家
他、宿場を基盤として、隆盛の一途をたどって来ました。富豪達の財力に養われ各
地の芸能文化も定着したのもこの頃だと思はれます。地元の人々にも、音楽に優れ
た人、舞踊に秀いでた人、作詞能力のある人、それ等を組み合せ、よりすぐって見
事に一つの芸能に仕立て上げる、演出家。つまり村人の中の「物好き」と称される
人人が越後獅子と信州の獅子踊り、近郷の田植踊などと溶着させ、先祖から口伝え
に口ずさんで来た今様(大昔の流行歌)の曲を組み合わせ、後継者の皆さんに感謝
し、益々の繁栄を希うため、獅子踊りの中の合い唄にと、数かずの詞(ことばうた
)も作りました。例へば、お医者様ほめ唄として
〽︎お医者様 百色草から 選り分けて
それを用いて 養生なさるる。
オイオイ 養生なさるる 又は、
酒屋ほめ唄として、
〽︎此の酒は 何とあがりし 皆の衆
江戸で諸白 加賀できく酒。
糀屋ほめ唄では、
〽︎糀屋さん、室のこぐちに昼寝して、
花のかかるを 夢に見るぞえ、
なんと含蓄のある、面白い詩の数々でありましょうか。小松町は、昔から文学の
盛んな処でありました。多くの文学家を輩出しております。特に、狂歌や川柳の達
人も沢山居られたから、此の様な奥深く、豊かな内容の作詞も可能でありました。
小松町の内外から発掘されている古墳、史跡などの考古遺跡からもたらされる情
報は、現在迄の気の遠くなる程の長い間、栄枯衰盛、有為転変の、壮大な道程をた
どり、化石や墳墓として時を止め、埋蔵された文化財として掘り出され、雄大なロ
マンを感じさせています。かつてこの町は、数億年前の海底説から、人類の発生、
共同生活体をたどる過程の中でも、気候、風土、四季感、土地の形状から見ても、
早くから人類の生活に適した土地柄の様状、活用、保存などに最適な場所であった
老子、又、住民の保存、保護への情熱が、他所よりも優れていたのかも知れません。
古くは住居跡、墳墓、官衙(かんが)跡など発見された事も合わせて、古くから
人々の往来も盛んで、色々な歌舞伎文化や造形、彫刻などの文化も多く現れては消
滅し、消滅から復元されて現在まで残された民俗芸能、民族行事、伝承は、各村落
に大切に保存されています。
その多くは新興行事に伴はれ、発表の時期まで神社や佛閣に姿をひそめ、年一度
の祭礼などで華やかに舞い、唄い踊られ、祭りが終わると、又、大切に収納されて
来ました。
小松の獅子踊りもそれらの一つで、諏訪神社や、大光院の祭礼行事として奉納す
るだけの発表の場であったもので、従って内容に大きな変化もなく、ほとんど正確
な姿で保存されて来たものと思われます。
小松獅子踊りは、どの様にして組み立てられたのか、非常に興味をそそられるも
のであります。獅子頭は、越後路を経て越後獅子から、獅子の切り幕は、力強い動
きを伴って、信州路をたどって長野の上田から。仲立ち、花笠は、田植え踊りの早
乙女が彌次郎なる面すりを伴って、白石路を通り仙台方面から、歌は遠く都なる京
都から・・・・と、遠くは坂上田村麿を始めとし、名僧たちの東北巡錫(じゅんしゃ
く)、布教巡錫などの文化伝播と共に、この地に止まり、神佛の比護(ひご)のも
と大切に扱はれて来た訳であります。
そんな中でも、踊りの内容に少しずつの変化も見られました。
伝承のためには色々な要素を必要としたからです。踊りの進行上、より高い格調
を求められました。踊りの流れを、能や狂言にみられる序、破、急、の原則などを
各所に取り入れ、変化に富んだ緩急。ダイナミックな跳躍や、極限の激しい踊りが
懐古の格調と共に見事に組み立てられました。
小松獅子踊の特異さは、組合せた踊りの完成度にあると思はれます。近隣の同系
統の獅子踊りと比較しても序破急の洗練された内容と流れは、長い年月を経て、相
当手を加えられ、近代芸能の域にまで近づいている様にも思はれまする
中でも踊りの、中の庭の雄獅子の狂いの場面に見られる。曲芸的な大技である火
の輪くぐりは圧巻であります。
火を恐れる筈の獅子が、何故に火の輪をくぐる技をなしたか、歴史を考察しても
思計ることは出来ません。
民俗芸能の保存には、練習費、道具費、師匠謝礼、修繕費、公演費、肴料、保存
庫費など、莫大な費用を必要とします。多くは地主、豪農、豪商の皆さんが経費を
拠出して保存に協力してくれていたと思はれますが、栄枯衰勢、時の流れと共に、
自給自足の保存を余儀なくされる時代もありましたから、総ての経費を門付の花銭
に依って賄って行かざると得なくなりました。
小松にも三〜四個所、獅子踊のグループがありましたから、年一、二回の公演の
度毎に踊りの内容や、技を競い合って来たにちがいありません。観衆が魅力を感じ
ないグループの花銭は極端に少なく、保存にも相当な苦労を伴ったことと思いま
す。次の公演まで道具などを担保にして金策をこころみた例もあったと、昔語りに
聞いていましたから、代表者の痛みも思いやられます。
現に、只今使はれている道具類の中には、何十年も質屋に眠っていたもので、質
屋さんからの好意で寄付を受け、大切に使はれている品物も多くあります。
門付による花銭の多少が、保存の基盤になる訳ですから、各グループとも切磋琢
磨、技を磨き、奇をを伴う曲芸的な技や、音曲に、グループ独特の工夫を凝らし、
大衆うけのする踊りに昇華させ、今日に至ったものと考へられます。踊りを生業に
していた訳ではなく、農閑期や冬ごもりの間に、仕草を振り付けし、笛の曲を合
せ、歌を添え、三者の緩急、つまり序破急の原則に合致させ、大衆うけのする素晴
らしい芸術作品に育て上げた、先人達の並々ならぬ努力と想像力の結晶であったと
言はねばなりません。
平和であったこと、おだやかな盆地、風土に恵まれていたこと、美的感覚、想像
力が抜群であったこと。なだらから丘陵が続き豊沃(ほうよく)な土壌が永住に適
した環境であったことが、数々の文化財、民俗芸能を創造し、独創的な芸能を保存
することが出来た要因でもあると考察いたします。
この様にして、踊の生い立ちを想像する事が出来ますが、その他の道具類は如何
だったでしょう。
獅子頭は、昭和三十年頃東京浅草の ゛藤浪小道具店 ゛に修理に出しました。
朱色の頭には文化○年新調か、修理かの記銘があったと聞きました。約二百年を
経ていることになります。卓越した職人の手に依るサイクで、あれ程深い凸凹が張
り子で造られ、頭上に付けて激しい踊りに耐え得る細工は京都か江戸の、伎楽面師
に依る作品らしく、芸術性の高い、優れた作品であると思はれます。一見、龍頭を
思はせますが、学者の話では青獅子であろうと言はれています。里山に近い農村に
伝はる羚羊(かもしか)型の頭に似ているから、羚羊型の分類に入るとの事でし
た。
黒い獅子頭は、それよりずっと若い様に思はれます。全体の型が軟らかい丸みを
帯び、彫りも浅く、素材もや ’ 薄目で、つまり激しい踊りに適した軽さで、破損して
も修理や複製も容易になされる様に見受けられ、従って製作年代の若さが感じられ
る訳であります。
何れにしてもその製作工程は、漆芸の極致とも言ふべき工程を経て作り上げたも
ので、先ず木型を彫り、木型は割木型と称し、いくつかに分割し、作品から取り出
し易く工夫されています。その上に麻布や絹布を下地として貼り固め、生紙を千
切って漆で貼り重ねていきます。乾かしては貼り、何回も重ねる訳ですから、可成
りの期間を必要とします。補強と飾り付けを容易する為、頭の頂天と顎の部分に桐
の板を削って嵌め込み、上塗り、色付け、仕上塗りを施し、頭部には長尾鶏の尾羽
を飾り鬣(たてがみ)を模し、背には鳥の翼の羽根を植え付け、野獣の姿を表、顎
から下げた幕は、眼の部分に粗めの布を用い、両端を握り、大きな動きを容易にす
る為、短く切り幕に仕立てています。
昭和二十五年頃迄、獅子踊りの道具は、旧小松町役場に保管されていたのを、小
松公会堂(鬚町にあり、公民館となっていた)(鬚 ひげ)の二階の物置に移され
ました。お茶箱(木製でアルミ箔張りの大型)五箇位あった様です。獅子頭や太鼓
などは痛みは少なかった様でしたが、衣装類のほとんどは、使用することが出来な
い汚れと虫喰いばかりでした。然しその生地、染付け、色彩、中には部分的に刺繍
されたものもあり、その美くしさ、豪華さに驚いた記憶が蘇って参ります。公民館
の秋山主事さんに聞いた処、生地は絹のお召地、裏地には総紅絹(そうもみ)で、
裾綿入り、友禅模様や総柄一部刺繍もので、金銀糸なども縫い込まれ、歌舞伎役者
が着用したものに似ている豪華で立派なものだった様です。また、仲立ちが着用し
たと思はれる化粧廻し状の前だれも美事なもので、赤の羅紗地に金糸で、小松町の
町章、松葉で六角星を、真中に小の字を丸型にあしらった刺繍に、金糸を捻って房
にした全く立派な化粧廻しであった事を思い出されます。残念乍ら虫喰いと汚れで
廃棄された様でした。
笛の吹き方も各地で腕を磨き、平安朝から傳承された旋律を、如何に正しく傳え
るか、如何に力強く、美くしく表現し、序破急の確かな音階と音量を醸し出すこと
に腐心していました。獅子踊りは野外での公演を主とする為、笛の力は絶大なもの
があります。力強さと遠く迄届く遠音(とおね)の確かさ、正に主役的存在である
と言へます。吹き込みと指先の調和は、他の楽器よりは単純な構造乍ら、繊細で又
豪快に、一味違った趣きを求められます。
この踊りに使はれている竹笛は「三本調子」と呼ばれる□類の横笛であります。
明笛(みんてき)よりは長目で、笛頭から指三本分下って吹き口を付け、吹き口か
ら拳一つ分下って第一穴から第七穴までの寸法は、片手の親指と子指の先を軽く開
いて伸ばした間に位置付け、第七穴から笛尻までは軽く一握り分の長さを残す寸法
を定めてあります。
全長が長く、音穴も一個多いため、可成りの肺活量を必要とし、息の配分と、指
先の微妙な使い分けには格別の技術を要求されますが、その旋律は絶妙の趣があり
ます。
初夏、田んぼに水が漲(みなぎ)られると、笛の練習が始まります。哀調を帯
び、古(いにし)えの雅び、高貴な調べの商宮律笛、勇壮極まる黒獅子舞、などと
共に、獅子踊りの変化に富んだ語り笛の音が、水面(みなも)を渡って流れて参り
ます。入梅の季節でもあり、湿度が高くなる為、笛の内部が適度に湿りを帯び、吹
き口も軟らかく、音色が良く、遠音も水面を渡る風に乗って豊に響くのだそうで
す。
その様に踊りの形態も確立し、華麗さと大技を競い、技術を磨き、元祖獅子踊り
として近隣に誇れる内容を充実させていた頃。
関ヶ原の戦いから、再度の減禄(げんろく)を余儀なくされた上杉藩主から、奢
侈(しゃし)禁止のお触(ふ)れが出されました。華美を競った獅子踊りにまで影
響があり、派手な衣装や道具わ用いる事は不可能となり、豊作の年以外は踊ること
さえ禁じられる事になりました。
収穫期の収量が決定される頃は、雪が降る季節になり、豊作である事は年貢も多
くなる訳で、賦課(ふか)が大きければ豊作でなくとも年貢を下げるものでもな
かったから、常に郷民は苦しんで来ました。天領であった高畠町の生活と比較する
と、いかに貧困を極めていたか、生産意慾(せいさんいよく)さえも失はれる程で
ありました。その様な時代が長く続き、獅子踊りの傳承さえ失はれそうになった
時、南方の若い衆から伝承再開の気運が盛り上がって来たと言はれています。毎年
収穫後に行はれる部落の契約行事が発端だったと言われています。
契約行事は、町内各部落毎に行はれる年中行事の一つで、秋の収穫が終わり、年
末に至ると先ず戸主達が集会所に寄り合い、一年間の反省と、共同耕作地、水費、
山林会計、農道管理などの総決算を行い、又、冠婚葬祭、祭事、部落行事、人夫費、
その他、諸々の賦課や申し合わせを行ふ行事で、兎もすれば泊まりがけで行ってお
りました。戸主達の取り決めに従って、若い衆契約も盛んに行はれ、賦役(ふえ
き)についての原動力である若い衆の契約行事は、勤労への感謝、慰労も兼ねる事
から、二泊三日で飲みほうだい、食い放題の賑やかなものでした。興が乗ると当然
のことの様に、口傳(くちづた)えの獅子踊唄や口笛で懐古を偲んでいたに違いま
せん。中には振り付けを思い出しては踊り出す人もあった様です。
豊作の年だけ踊って良いと言う事は、実収穫が決まる降雪の頃の結果であるか
ら、神佛への奉納なども現実的でなく、踊りを全面的に禁止されたも同然でありま
した。豊作と言っても来る年の賦課や年貢増を思ふと、心から喜び合ふことが出来
なかったと思われます。契約行事や冬季間の藁仕事などで若い衆達が集まると、必
ずの様に懐古の踊りが、ひっそりと続けられ、伝統芸能の消滅を最小に防いで来た
訳です。祭礼や伝統芸能を圧迫したり、禁止した事は即、勤労意欲の低下に至こと
もありました。為政者(いせいしゃ)にとって生産力の低下は憂いに値する事であ
り、村役と役人の話し合いが、お互いの要望なども含めて幾度も繰り返された事と
思います。その中には、若者の勤労意慾を湧き立たせ、団結心を養ひ、次代を担う
青少年を育成する手段として、派手にならない程度の祭礼や伝統行事、伝統芸能の
緩和策も講じられました。反骨精神を持つ者や、そんぴん者も決起し、例へば獅子
踊りもこのままでは消滅するばかりと訴え、むしろ、毎年神社佛閣に奉納し、豊作
を祈願する事こそ本来の姿であることを強く希った訳であります。
その様な希いを村役人から上奏され、奢侈は禁じられ乍ら、゛豊年獅子踊り゛と
名付けられ、再び陽の目を見る事が出来たと言はれ伝へられています。
さて、小松豊年獅子踊りの名前が出来上がりましたが以前派手さを競い合った頃
の衣装も使へず、資金も資金源もなく、苦難の出発でありました。
元々農作業を模して来た踊りであるから、と、常日頃農作業に着用していた木綿
の農良(のら)着に紺の股引(ももひき)き、袖口には、雄獅子、牝獅子、供獅子
を識別する為、それぞれに青、赤、黄色の布を縫い付け、早乙女、花笠の衣装には、
女物の木綿の長襦袢(ながじゅばん)に裾綿(すそわた)を入れ、共布で手甲
(てっこう)、脚絆(きゃはん)、赤木綿の前掛を付けた粗末な物でありました。
笠につけた花は、生紙に赤や黄に染めた造花だけが豪華であったといわれていまし
た。南方の若い衆が工夫を凝らして第一陣を飾ると、西方、北方、中小松、莅(の
ぞき)、朴沢(ほうのさわ)の各地でも次々と再開、再々開と続いて豊作を祈願し
、芸を競い合った事と思はれます。豊作の年だけ許るされた獅子踊りが、小松の
人々の気骨と願望に従って、豊年を祈願する踊りに生まれ変わり、生産、生活意欲
も向上し、宿場町の活気を取り戻すことが出来た訳ですから、藩令に背いた事も何
時しか消え去り、小松豊年獅子踊りとして、又、保存、繁栄の途を辿って参る事に
なります。
南方の獅子踊り会員は、その保存にかけて熱情は群を抜いていました。獅子踊り
の復活を討へ、希いが実現しましたから、一層情熱を注いで来ました。豊な自然が
あって生産が成り立ち、生きる力を与えてくれる自然の力に感謝する為、踊りの先
頭に立つ大纏(おおまとい)の正面に「雨露の恩」と大書されていました。獅子宿
には踊りや笛、唄の師匠宅が当てられ、公演前の一ヶ月程練習を繰り返します。苛
酷な練習にもめげず、公園の日に向けて、只管(ひたすら)激しい練習を続けま
す。公演の日は、早朝から集合し、装束を付けた後、獅子宿を立つ時は宿主に感謝
の意を込め、宿立ちの唄で道中行列を行います。
一番先に前述の叶壇へ参詣し、豊作祈願と踊りの上達、公演中の無事、会員の健
康と存続を祈り、前の庭を奉納し、町内巡演の行列を組む訳です。すべての願いが
叶う様にと、叶う壇は昔から南方衆の心のより処でもありました。
昭和25年4月19日鈴木芳一氏が複写されたものを引用させていただきました。
2023年1月30日 渋谷正斗編集