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▼最上義光のこと♯3 【「悪人」義光を定着させたもの】

最上義光のこと♯3

【「悪人」義光を定着させたもの】
 
 義光についての評価が大きく変わったのは昭和四十年代、きっかけとなったのは『山形市史』である。この浩瀚な通史は、戦国奥羽の諸侯のなかでもリーダー格であった義光を、まことにつまらぬ人物として叙述した。
 『市史』では、中世末から近世初期における義光時代に多くのページを割き、多方面にわたる彼の業績を紹介しながらも、義光の人間像については、傲慢で残忍、冷酷、一族を根絶やしにし、謀略をこととし、権威におもねる人物というような性格づけで貫いている。
「義光の強引にして不遜な態度には義守も怒り」(中巻 近世編 P8)
「義光は武勇のみならず、謀略にも長じ…」(中巻 近世編 P18)
「ここに義光は、残忍とも言える態度で、一族等の根絶やしにかかった。」(中巻 近世編 P13)
「谷地を屠った義光は、勢いに乗じて川西地方の掃討を断行した。」(中巻 近世編 P22)
 文章記述だけでなく、「義光の追従外交」(中巻 近世編 P37)という見出しを設けて、豊臣・徳川に臣従したのは義光の権威にへつらう「追従」であるとした。だが、そもそもこの時代はどこのどんな大名にしても、豊臣や徳川に反抗できる情況ではなかったのだ。
 このような文言でもって、義光の人間性を、俗な言い方をすれば、引きずりおろしてしまったのであつた。
 昭和五十二年に山形城址に義光像を建立しようとしたとき、文化人の間からは猛烈な反対運動が起きた。
 「血で血を洗う武力闘争と、権謀術数でもって地域を制覇した最上義光のような人物の銅像を、平和都市山形の市民憩いの場に建てるとはなにごとか。」
 反対者の意見はつまるところ、こういうことだった.
 そしてそれは、ほかならぬ 『山形市史』が作り上げた義光の人間像を、鵜呑みにした考え方だった。
 『市史』が信頼すべき公的出版物として大量に発行され、全国の都道府県や大学の図書館に頒布されたのだから、戦国時代を研究する人たちや、戦国に主題をとる文筆家は、たいていこれに従うこととなる。
 「羽州の狐」「狡猾無慈悲」「冷酷残忍」式の枕詞が義光を形容する言葉となった。某女流作家などは 「私のもっとも嫌いな人物」と一刀両断するにいたる。
 本来なら客観記述を要請されるはずの歴史辞典でさえ「冷酷、最上義光」を潜めた記述になっているものがあって(戦前発行の辞典類はそうではない。)、『山形市史』の影響の根深く強いことに驚いてしまう。
 だいぶ前のNHKの大河ドラマ『独眼龍政宗』では、主人公政宗に光をあて、彼を愛すべき尊敬すべき大人物とするために、対照的な役まわりにされたのが最上義光であった。時には競争相手となり、時には敵対して小競り合いを起こしたこともある義光が、その損な役にされたのも、劇の構成上は仕方がなかったのかもしれない。
 しかし、多くの人は、このフィクションを、史実であるかのように受け取ってしまった。
 「山形の殿様最上義光とは、あんなふうに陰気で残忍な、暗い人間だったのか。そうだったのか。わかった。」
 多くの人がそう思い込んでしまったところがある。そして、その余波は今以て消すことがむずかしい。わたしの狭い経験でも、いろんな人からそういう意味のことをまともに言われた。
 このことは、やや大げさに言えば、山形人の精神にまで影響を及ぼしているような感じがするのだが、どうだろうか。
 出羽の国が成立してからまさに千四百年。その長い歴史のなかで、最大の業績を成し遂げた出羽の人、現山形県の最上川流域の発展に絶大な功績を残した山形人武将が、陰険で狡猾、卑小な人物だったとなれば、山形人としてはふるさとの歴史そのものに自信を失いかねない。
 たいせつな故郷と、山形人自らのプライドを失うことにつながっていくだろう。
 それならば、本当に最上義光はその程度の、つまらぬ人物に過ぎなかったのか。
 かれが武人としてなした仕事、ひとりの人間として残した文学作品や近親知人にあてた手紙類、領国の支配者としてなした地域発展のための業績、もたらした文化的な遺産等々をつぶさに見ていけば、今世上に行き渡っている義光像は、大きな誤解から生まれたものだと言って間違いあるまい。
■■片桐繁雄

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2010/08/21 13:48 (C) 最上義光歴史館
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