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▼白鳥長久謀殺事件

☆2004年に兵庫県立歴史博物館において、伊達政宗が最上義光に宛てた書状が発見された。この中に白鳥十郎長久の殺害に関する記述があるとのこと。
☆これまでは、重病を装った義光が、最上家の今後を託したいと白鳥長久を山形城に誘いだし、油断したところを義光自ら斬り殺したと云われてきた。義光が謀略家といわれたり、義理2だったりするのはこの事件の影響が大きいが、新発見の書状によると、実際はちょっと違うのかもしれない。
☆新発見の書状で伊達政宗は「白鳥ならびに氏家方生害の由」と書いている。生害には自害という意味もあるが、ここでは単に殺害されたという意味だろうか? それにしても氏家って、氏家守棟のことですか!? この時点(天正12年)で亡くなっていたということですか!?
☆別の氏家さんの可能性もありますけどね。氏家守棟に関しては、跡を継いだ息子?も氏家尾張守を名乗ったらしく、どこで代替わりしたのかはっきりしないらしいですね。
☆地元の先生方は、山形城内で白鳥長久が殺された際に戦闘があり、その戦闘で最上義光の重臣の氏家(守棟?)も死んだと解釈しているらしい。なので、重病を装って寝ていた義光が、その枕元で自ら長久を斬った、というのはホントかどうか怪しいということらしい。
☆「白鳥ならびに氏家方生害の由」なんて書き方だと、白鳥と氏家が手を組んで謀反を企てたので、両者を成敗したみたいな感じでもある。
☆白鳥十郎が山形城に赴く際、かなりの軍勢を引き連れていったという説もある。家臣たちは主君が死ぬと、山形勢と戦いながら谷地城まで引き上げてきたとか。
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